ここから本文です。
更新日:2009年11月1日
加茂井水生みの親・三浦刑部とその親子
今川義元の武将であった三浦刑部は永禄3年(1560年)、義元が桶狭間の戦いに敗れた後、清水の里に潜んでいたが武士をやめ、百姓になろうと決意して二人の息子と共に当地に住みついたといわれています。ところが加茂村は菊川と西方川に囲まれているものの川床が低く、その水を米作りや生活に利用することはできなかったのです。
そこで刑部は菊川の上流から水を引くことはできないかと考えました。その場所は潮海寺村までさかのぼらなければなりません。そこに堰を設け水路を掘って加茂村まで水を導いてこなければならないのです。ところが途中、本所村と半済村とがあり、潮海寺村と合わせてすべて領主が違い無断で他領に入ることなど許されるものではありません。言い伝えによるとここで刑部は狂人のふりをしてふらふらと歩き回ったり、凧を揚げわざと糸を切って追いかけたりしながら地形を調べ測量したというのです。このような苦労の末、領主への願いが届けられ、天正9年(1581年)用水路工事に着工し、13年の歳月を経た文禄3年ようやく宿願かなって完成を見たのです。ところが、刑部はこの喜びを味わうこともできず工事の途中亡くなってしまいました。その後を遺児である浅右衛門と勘右衛門兄弟が力を合わせ完工に漕ぎ着けたのでした。加茂村に昔から言い伝えられていた「嫁にやるなら加茂へはおよし、加茂はひばりの遊びどこ」とまで言われていた荒地に水が導かれ、水田が拓かれ、大勢の人が集まり、嶺田三千石、加茂二千石と、この界隈で二番目に多くの米が獲れる村になったのです。
(出典:菊川町50周年記念誌「みのり」)
お問い合わせ
フィードバック
© Kikugawa City. All Rights Reserved.