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更新日:2021年8月2日
菊川市で本格的にお茶の栽培がはじまったのは、鎖国が解かれた明治初期のこと。横浜開港によってお茶が輸出の花形商品となり、菊川市の東に広がる当時雑木林だった牧之原台地が開墾されお茶が植えられました。
今でこそ大茶園が広がる牧之原台地ですが昔は、草や木が生い茂ったあれはてた土地で、水も不自由だったので住む人もいませんでした。1868年に江戸時代から明治の新しい世のなかになり、身分制度が改められ武士は今までの仕事を失ってしまいました。そこで、明治2年(1869年)に中条景昭(ちゅうじょうかげあき)や大草高重(おおくさたかしげ)らは、江戸の武士およそ300人をつれて、牧之原台地の荒地を開墾し、農業をすることになりました。また、これまで橋をかけることが許されなかった大井川に橋がかかり、川をわたる旅人の助けをしていた川越し人足たちも職を失い、旧金谷町の仲田源蔵(なかたげんぞう)や旧浜岡町の丸尾文六(まるおぶんろく)のすすめで、開墾の仕事をしてお茶をつくることになりました。
しかし、荒地を開墾する作業は草を刈ったり、大きな木を切り倒して根をほり出したりと、たいへんな作業でした。病気でたおれる人も出るなど、武士の多くはなれない仕事と不自由な生活にたえかね、土地をはなれていきましが、まわりに住む農家の人たちも加わり、開墾は続けられました。
こうした昔の人々の苦労と努力が実を結び、今の6000ヘクタールにも広がる牧之原台地の大茶園のもとがつくられたのです。
昭和39年(1964年)以降、茶農業共同組合設立が推進されて、安定した生産体制が整い、また熱心な生産者たちによって「深蒸し茶」の製法も開発され、全国有数の茶産地としての評価が高まりました。遠州のからっ風と恵まれた太陽の光のなかで育つ菊川市のお茶は、アミノ酸をたっぷり含み、葉肉が厚いのが特長。この茶葉でつくる菊川の「深蒸し茶」はとりわけ風味が高く、これまで多数の賞を受賞しています。
(出典:菊川市茶業協会ホームページ)菊川市茶業協会ホームページ( 外部サイトへリンク )
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