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更新日:2019年2月27日
「すべての人に教育を」横地小学校創立者
小田信樹は弘化元年(1844年)、江戸に生まれ、幼いころから学問や武技に励みました。明治3年(1870年)、明治維新により徳川に従って静岡に移りました。翌年、廃藩置県の施行に伴い、横地に居を構えました。
外国との交流が盛んになった当時「欧米の思想や技術を取り入れ、日本を近代国家としなければ。そのためには若者たちを教育することが大切だ」と心ある人たちは考えました。信樹もその一人でした。そして、27歳という若さで自分の屋敷の西に「梨園義塾」という塾を開き、地元の子どもたちを教育することを始めました。
明治5年(1872年)、学生頒布が行われ、全国に学校を作って等しく子どもたちが学べるよう国をあげて奨励しました。信樹は村の人と相談し、翌年、東横地村、西横地村、三沢村の三村を合わせた組合立として、中内田学校の分教室、横地校を開校。初代校長となって地元の教育に熱心に取り組みました。3年後には新校舎を設立。その時の費用は寄付金によって賄いましたが、信樹は自分の給料の一部をこれ以後ずっと寄付し続けたといわれています。明治10年(1877年)には奈良野村、土橋村から要請を受けて5か村組合立となり、横地小学校として独立しました。
翌年、信樹は内務省に出任することになり、学校を退職します。しかし、梨園塾と信樹とのつながりは強く残りました。上京する際、教員との間に10条の規程も作りました。信樹の理念が横地小の原点となったのです。
信樹は村を離れた時も常に郷里のことを忘れず、たびたび帰ってきては村のこと、学校のことなどについて相談にのっていました。信樹が地域にもたらした教えは、この地に住む人々の心に生き続けています。
(出典:菊川町50周年記念誌)
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