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更新日:2011年10月17日
河川改修を一生の仕事に
松下幸一は明治27年(1894年)、西嶺田に生まれました。
平田村の役場職員となった幸一は、のちに平田村の村長となります。
そのころの河川「菊川」は今のような穏やかな川ではなく、よく洪水を起こす暴れ川でした。菊川の堤防をしっかり造り、水害の心配のない川にしたいという地域の人たちの願いから、大正10年(1921年)、菊川改修期成同盟会が結成。幸一もこの同盟会の一員となりました。
翌年、幸一が27歳のとき、ひどい水害が起こりました。郡の役人として、その悲惨な光景を目の当たりにした幸一は、菊川を洪水の起きない川にすることを一生の仕事と決意。それ以来、同盟会の中心となった幸一は、水害を調べたり、改修費用の援助を求めるため国や県へお願いしたりしました。しかし、何度お願いしても良い返事をもらえませんでした。それでも幸一はあきらめずに自分の田んぼを売っては上京し、1カ月も2カ月も東京にいて国へお願いし続けました。
この誰にも負けないねばり強さと努力のおかげで、菊川は一級河川として認められます。そして昭和8年(1933年)、悲願の堤防改修工事が始まりました。
当時、戦争により日本の多くの川は工事を中止させられました。しかし、菊川だけは工事を続けることができました。その理由は、食料を作るために菊川の水が必要だったこともありますが、それ以上に期成同盟会の人たちの熱心な思いが通じたためでしょう。
先人のあとを継いで、一級河川への編入を果たした幸一は、全国的にも例のない改修促進を実現しました。
(出典:小笠町社会科副読本「わたしたちの小笠町」、小笠町誌)
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