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更新日:2011年10月17日
「われらが農協を日本一に」を夢に
八木繁樹は大正4年(1915年)、旧内田村稲荷部に生まれました。
終戦直後は、経済も混乱を極めており、内田農協も厳しい状況にありました。この危機を救うため、内田村助役であった栗田英太郎が経営を託されました。そのときの条件として、役場から農協参事として迎えられたのが繁樹です。
売れない購買品、雨漏りする倉庫、回収不能な売掛金や貸付金…。文字通り手もつけられない状態の中、繁樹はまず職員を教育し、レベルアップを図ることから始めました。農家の現状や村の実態を認識し、農協の経営内容をあからさまに話した上で、今何をどうすべきか徹底討議。昼夜を問わず「やるしかない」と職員の意欲を燃え立たせました。戦争で左足、左手指を失い、義肢を使用していた繁樹が先頭に立ったのです。役職員が夢中になると、組合員もそれに続き、農協一丸の態勢がつくられていきました。
繁樹はいつも夢を追い続ける人でした。少ない職員の中で資格のある者を採用し、安い肥料を供給。有線放送は全国で2番目に設置し、農協と組合員だけでなく組合員同士の会話も無料にしました。この成果を各地にPRし、全国の農協に普及させました。
小型トラクターを米国から輸入し、導入に成功したのも繁樹の提案でした。小さな内田農協で、全国でも例のない制度を次々と成功させました。
晩年、大日本報徳社の副社長に就任し、数々の本を執筆。68歳のときには、同郷の偉人でもある初代県知事関口隆吉の業績をたたえ「関口隆吉の生涯」を発行しました。
(出典:菊川町50周年記念誌「みのり」)
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