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更新日:2011年4月4日
菊川の河川改修運動に尽力
黒田定七郎は、文久元年(1861年)、大井川町の池谷家に生まれ、黒田家(城東郡嶺田村)に養子にきました。
黒田家は、昔代官を務めており、広い土地をもつ地主でした。そのころの農業は、地主が小作人という土地を持たない人に土地を貸して、小作人はそのお返しにお金や作物を地主に納めるというやり方でした。
黒田家の20代目となった定七郎は、その小作人たちに気持ちよく働いてもらうため、収穫のときには良い米を作った人に賞品をあげたり、夕食会を開いたりしました。
また、篤農家(農業に熱心で研究的な人)の加藤新蔵や黒田幸吉などとともに農事懇談会を組織。自ら農会長となって産業の振興を図りました。
そのころの菊川や牛渕川などの支流は、農業に欠かせない水を与えてくれる一方で、度々水害を起こし、その都度大きな被害を受けていました。
定七郎は、治水問題に精魂を傾け、養父源五郎の意思を継ぎ、河川改修運動に同士を集結。先頭に立ち、菊川の堤防を改修することに全力を注ぎました。
明治43年(1911年)の8月、大雨により牛渕川の堤防が欠潰します。激しく降る雨の中で、定七郎は大勢の人を指揮し、堤防を復旧。被害の拡大を防ぎました。
一方で教育にも関心が深かった定七郎は、好運寺(下平川)の松浦禅雄師の下で修行。子どもの教育の基本は家庭にあると、家庭会を発足させ、家庭教育の大切さを説きました。
そしてそのころ珍しかった蓄音機(レコードプレーヤー)やオルガンを学校に寄付したり、教育講話をしたりするなど地域の子どもたちの教育に尽くしました。
(参考:小笠町社会科副読本「わたしたちの小笠町」、小笠町誌)
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